「水の中に前屈みで顔をつけた状態で発見」“急死”中山美穂(54)“終の住処”はバーニングが提供していた「70平米ほどの部屋は、彼女好みにリフォームを入れて」
〈「朝7時までLINEのやりとりを…」中山美穂(54)亡くなったのは自宅浴槽内だった「昨夜もインスタを更新、一体何が?」〉 から続く 12月6日、東京渋谷区にある自宅の浴槽で亡くなっているところを発見された歌手で俳優の中山美穂(享年54)。 8日、公式サイトに所属事務所のコメントが発表された。 〈検死の結果、事件性はないことが確認されました。また、死因は入浴中に起きた不慮の事故によるものと判明いたしました〉 商業ビルの6階に住んでいた 「水の中に前屈みで顔をつけた状態で発見されていて、お酒が入っていたという話もあり、浴槽の中で気を失って溺れてしまったと見られています」(社会部記者) 中山の自宅は繁華街にある商業ビルの6階の部屋。かつて絶大な人気を誇ったスターの住処としては意外なものだった。 ビルの所有者を調べたところ、株式会社バーニングパブリッシャーズと判明した。芸能界で強い権勢を誇るプロダクション「バーニング」グループの音楽著作権などを扱う会社だ。 なぜ、中山がこのビルに住んでいたのか。経緯を知る中山の知人が明かす。 「彼女好みにリフォームも入れて…」 「2014年に中山さんは夫の辻仁成さんと離婚しますが、帰国後の芸能活動を再開する際にサポートしたのが、彼女の音楽関係の権利を全て持っているバーニングパブリッシャーズでした。 当時、彼女は音楽家の渋谷慶一郎氏と交際していて、彼のマンションで半同棲状態でした。フランスに行くと言い出したり、フラフラした感じだったので、真剣に仕事に向き合うためにちゃんと拠点を用意しなくてはならない、ということで部屋を提供されたんです。70平米ほどの部屋は、彼女好みにリフォームを入れて、仕切りの無い吹き抜けの一つの大きな部屋になっています。とても気に入って約10年、この部屋で暮らしていました」 家賃は彼女に入る印税と相殺されるかたちで支払われていたという。 このビルに入る会社に勤務する男性が語る。 「中山さんが住んでいたのは知っていました。何回か朝方にすれ違ったことがある。朝方にひっそり帽子かぶって出かけていくんだよね。有名な人だから周囲に気がつかれないようにひっそりお暮らしになっていたんでしょうね。おそらくですが、事務所の人が迎えに来ていた。最近はあまり姿を見かけていませんでしたが」 親子3人で暮らしたパリでの10年間を経て、東京での一人暮らしもまた、10年で幕を閉じることとなってしまった。
中山美穂さん 死因は入浴中の事故 医療ジャーナリスト4つの可能性指摘(スポニチアネックス)
6日に東京都渋谷区の自宅マンションの浴室で死亡した状態で発見された女優で歌手の中山美穂さん(享年54)の死因について、所属事務所は8日、「入浴中に起きた不慮の事故によるもの」と発表した。事件性はない。解剖を終えた中山さんの遺体は、自宅に無言の帰宅。また、元夫でミュージシャン、作家の辻仁成氏(65)がブログで心境をつづった。 午後4時20分ごろ、死因・身元調査法に基づく解剖を終えた中山さんの遺体が車で自宅に戻った。車の周囲を関係者がシートで覆っており、棺などはうかがうことはできなかった。妹で女優の中山忍(51)も3日連続で美穂さんの自宅を訪れ、最愛の姉に付き添った。遺体が戻る前に美穂さんの自宅に到着し、車を降りると報道陣に深々と一礼した。 所属事務所は公式サイトで「事件性はないことが確認されました」と説明。事務所関係者は「溺死だった」と話した。 入浴中に起きた悲劇。中山さんの身に何が起きていたのか。考えられる状況について、医師で医療ジャーナリストの森田豊氏は(1)ヒートショックによる脳卒中や心筋梗塞(2)入浴中の深い睡眠(3)熱中症による意識喪失(4)持病などによる発作――の可能性を指摘した。 (1)については「急激な気温の変化によって血圧が上下し、心臓や血管に疾患が起きるヒートショックの可能性がある」と説明。ただ検視では通常、心筋梗塞や脳卒中の症状を確認することができるため「可能性は低いのでは」と見解を示した。 森田氏が「最も考えられる」としたのは(2)だ。「ひどい疲れの時や睡眠不足の時、激しい運動の後やアルコールを摂取していた場合は、入浴中に深い眠りに落ちて溺死してしまう場合がある」と解説。「特に湯船が広いと眠りが深くなることがある」と付け加えた。実際に中山さんは酒が好きで、自宅でよく酒を飲んでいた。 (3)は「42度以上の湯に10分以上入浴すると、体温が38度近くまで上昇し熱中症となって意識を失うこともある」。(4)については「てんかんなどの持病を抱えており、入浴中に発作が出た可能性も否定できない」とした。 日本中を悲しみに包んだ中山さんの急逝。遺体はしばらく自宅に安置される。所属事務所は葬儀の日程や場所は非公表とし、後日お別れの会を開くことを検討している。
紅葉名所のモミジ「寿命」近づく…地元がつくった絶景を“次の100年”へ 香嵐渓が迎えた大きな転機
愛知県豊田市の香嵐渓(こうらんけい)はちょうど100年前、観光客を呼び込もうと植樹され、今では全国でも有数の紅葉の名所として広く知られている。しかし100年が経ち、モミジの“寿命”が近づきつつあることから、美しい景観を守るための取り組みが進められている。 ■『観光で生きていく』…香嵐渓“誕生”のきっかけ 香嵐渓は東海地方を代表する紅葉の名所として知られ、毎年多くの観光客が訪れる。2024年は例年より2週間ほど色づきが遅れ、11月末にようやく見頃を迎えた。 およそ4000本のモミジが赤や黄色に染まり、人々を魅了するが、この絶景は自然に生まれたものではなく、長い年月をかけてつくられたものだった。 香嵐渓の紅葉は、江戸時代に香積寺の三栄和尚が参拝客を楽しませようと、お経を唱えながら1本1本モミジを植えたのが始まりとされている。 1924年(大正13年)には当時の町長や地元の青年団が、紅葉の名所にしようと寄付金を集め、およそ1000本のモミジを植える「大植樹」を行い、その後も植樹は続けられ、現在の香嵐渓が形作られた。 香嵐渓がある豊田市足助地区の観光協会に話を聞くと、当時の人々には“町おこし”への強い思いがあったという。 足助観光協会の岡本真知さん: 足助では主要な産業といっても木を売ったりとかですね、そういうのが主流だったので、先の時代を考えてそうなったと聞いております。「観光で生きていこう」というのがその当時からあったってことなんです。 あれから100年がたち、人々の願いは叶えられた。毎年11月には「もみじ祭り」が行われ、期間中におよそ60万人が訪れるという。 ■幻想的なライトアップ…始まりのきっかけは“渋滞” 香嵐渓といえば「ライトアップ」が人気だ。264台のライトがモミジを照らし、巴川の川面を彩る。 幻想的なライトアップだが、始めたのは意外な理由からだった。 1970年代、マイカーが普及し人々の行動範囲が広がり、全国から香嵐渓を目指す車で道路は大渋滞となった。香嵐渓に向かう主な道路は2本しかなく、ようやく到着したことには日が暮れていることも多かったという。 そこで1988年(昭和63年)始まったのが、明かりで照らして紅葉を浮かび上がらせる「ライトアップ作戦」だった。 足助観光協会の岡本真知さん: 渋滞対策で行ったことなんですけれども、だんだんとそれが噂になって、夜も大渋滞という“オチ”になってしまったんですけれど。こんなに大規模なライトアップは他にはないと思っていて、昔のトンネルでよく見たオレンジっぽい照明を使っているので、とてもきれいに見えます。 ■モミジに近づく“寿命”…絶景を次の世代に繋ぐための取り組み 全国にその名を知られるようになった香嵐渓だが、「大植樹」から100年が経ち、大きな転機を迎えている。 樹木医の大橋成友さんは10年以上前から、香嵐渓のモミジを「診察」している。木の状態をみるだけでなく、枯れ枝が落ちて観光客に当たらないようするなど、細かいところにも気を配っている。 2024年の猛暑ではモミジが水不足となり、木が傷むことが心配されたが、無事に乗り切ることができた。モミジは100年以上長生きできるが、木が弱ってきて色付きが悪くなることもあるという。 また、モミジとともに植樹されたスギの木が成長し、栄養がいきわたらなかったり、十分に日が当たらないことから、5年前から本格的な間伐を始めた。伐採したモミジから作ったストラップも販売されている。 香嵐渓のモミジを守るための間伐と植樹には多額の費用がかかるため、効率的な作業が求められる。 樹木医の大橋成友さん: (老木に)お金をかけて一生懸命色々なことをすれば、多少は良くなると思うんですけど。本数が多いですから、年代差をつけたいと考えると。1本の木を一生懸命守るよりは、多少悪いなと思ったらあきらめるのも大事かもしれないですね。 豊田市も香嵐渓100年プロジェクトとして2024年度から7年間、毎年1000万円をかけて、弱ったモミジの伐採や植樹などを進めている。 足助観光協会でもモミジを守るため、2016年から「願掛けろうそく」というイベントを始めた。11月の週末に行われ、巴川沿いにグラスに入ったろうそくがおよそ800個並び、紅葉したモミジと神秘的な光景を作り出す。ろうそくは1個500円で販売され、モミジの植樹に役立てられている。 足助観光協会の岡本真知さん:…