小倉智昭さん死去「先日まで積極的に仕事こなす」がんとの長い闘病生活とともに静かにマイク置く
フジテレビ系「情報プレゼンター とくダネ!」など情報番組のキャスターとしてお茶の間に親しまれた、フリーアナウンサーの小倉智昭(おぐら・ともあき)さんが9日午後3時8分、膀胱(ぼうこう)がんのため、都内の自宅で亡くなった。77歳。家族葬を執り行う予定で、後日お別れの会を予定している。歯に衣(きぬ)着せぬ発言で長年人気を集めたが、16年からはがんとの闘病を続けてきた。 がんとの長い闘病生活とともに、静かにマイクを置いた。所属事務所はこの日、公式サイトで「小倉智昭が、12月9日15時8分、膀胱がんのため逝去いたしました」と報告した。事務所関係者によると、小倉さんの亡きがらは自宅に安置された。喪服姿の人の出入りも見られ、著名人の弔問希望が絶えないという。 小倉さんは16年5月13日に、「とくダネ!」内で初期の膀胱がんであることを公表。手術後の同23日に番組復帰したものの、筋肉質まで入り込んだ浸潤がんは切除し切れず。医師から全摘を勧められていたが、膀胱の温存を希望し、免疫療法などを行った。 18年夏に激しい出血があり、ぼうこう炎を併発したことで全摘手術を受けた。19年1月7日に同番組に復帰し、21年3月の最終回までMCを務め、その後も仕事を続けてきたが、昨年ステージ4の腎盂(じんう)がんであることが判明し、同12月に左腎臓を全摘。今年1月に「余命は1年半。3年生きる可能性は8%ない」と宣告を受けたことを明かしていた。 この日の発表では「入退院を繰り返しながら治療に励んでいましたが、先月に入り強い腰痛を訴え検査したところ、骨盤、腰椎および髄膜に転移がみられました」。今月に入り体調が急変。6日に病院から都内の自宅に戻り、最期は家族と愛犬に見守られ、息を引き取った。 秋田県生まれの小倉さんは、中学で東京・世田谷に転居し、陸上部で活躍。独協大仏語科に入学後も陸上部に入ったが、2年で退部。アナウンサー試験でフジテレビは最終選考で不合格も、東京12チャンネル(現テレビ東京)の秋募集でテレビ界入りした。 76年からはフリーに転身。TBS系「世界まるごとHOWマッチ」のナレーションが話題になり、ラジオパーソナリティーとしても活躍。日本テレビ系「キャッチ」や、フジテレビ系「どうーなってるの?!」などワイドショーの司会を務めた。「とくダネ!」では毎回、周囲にも話す内容を伝えないオープニングトークを展開。時に舌鋒(ぜっぽう)鋭く世論に切り込み、時に趣味にまつわるトークを繰り広げるなど、お茶の間に親しまれた。 陸上部出身とあって、マラソン中継などにもたびたび出演。特に五輪への思い入れは強く、00年のシドニー五輪から21年東京五輪まで現地取材した。大の西武ファンとしても知られ、今年9月の金子侑司氏の引退試合でも、力強いビデオメッセージを送っていた。 11月23日には、自身が出演するフジテレビ「小倉ベース」も放送された。所属事務所は「仕事に対する意欲が強く、先日まで積極的に仕事をこなす姿が目に焼きついています」と、最後まで現場に立ち続けた小倉さんの勇姿を伝えた。 ◆小倉智昭(おぐら・ともあき)1947年(昭22)5月25日、秋田県生まれ。独協大卒業後、70年に東京12チャンネル(現テレビ東京)入社。故大橋巨泉さんの勧めで76年にフリーアナに。TBS系クイズ番組「世界まるごとHOWマッチ」の出題を担当し「1秒間に18文字の原稿を読める男」として脚光を浴び、多くのテレビ、ラジオ番組で活躍。飲食店経営などマルチに活動しつつ、読書、オーディオビジュアル、機械時計、カメラ、クレー射撃など多趣味で知られた。血液型B。
【浴槽内で不慮の事故】「愛されている名前を残した」中山美穂さん(享年54)の母親が営んだレストラン関係者が明かした在し日の思い出
12月6日、渋谷区にある自宅の浴槽内で亡くなっていることがわかった歌手で俳優の中山美穂さん(享年54)。所属事務所は死因について「入浴中の不慮の事故」と伝えている。 “ミポリン”の愛称でトップアイドル、そして女優として活躍した中山さんは1970年3月、長野県の自然豊かな町で生まれた。 両親は中山さんが3歳のときに離婚。それ以降、中山さんは母子家庭で育ち、親戚の自宅で過ごすことが多かったという。ところが、そんな彼女に大きな転機が訪れる。広く知られているように、母親が秋田県出身の男性と再婚したのである。激動の幼少期を過ごしながらも、中山さんが親を恨むようなことはなかったようだ。【前後編の後編。前編から読む】 両親が創業したレストラン「今もファンレターが…」 所属事務所『ビッグアップル』の創業者・山中則男氏も、かつて夕刊紙の取材に「(中山さんは)オーディションには何度も落ちまくっていました。それでも本人が決してデビューを諦めなかったのは、“お父さん、お母さんに立派な家を建ててあげたい”という明確な目標があったからでした」と、その親孝行ぶりを明かしている。 実際にデビューからしばらく経ったあと、中山さんは両親のために都内に家を購入。さらに2000年7月には義父ゆかりの地である秋田県横手市内に、ふたりが創作レストランを開業する機会を設けた。子育てが落ち着いた母親と義父はレストランの経営に携わり、中山さん本人もお忍びで通っていたようだ。店の現オーナーであるAさんを知る関係者がこう語った。
【入浴中に不慮の事故】「体の一部がもぎ取られる」「誰より会いたい」急逝・中山美穂さん(享年54)がSNSに心境を吐露していた“世界中の誰より愛した人”への想い
俳優で歌手の中山美穂さんが12月6日、54歳という若さで天国に旅立った。浴槽でなくっているのが発見され、死因については「入浴中の不慮の事故」と発表された。昭和アイドルの全盛期を彩り、平成のヒットドラマを支えた雰囲気ある演技や歌……“ミポリン”の愛称で親しまれた彼女に再び逢うことは叶わなくなってしまった──。 中学1年生の時に原宿でスカウトされ、14歳で芸能の世界に身を置き、一線を走り続けてきた中山さん。アイドル、そして女優、アーティストとしての輝かしい功績の影で、39年間の芸能生活は激動そのものだった。 中山さんの“初ロマンス”のお相手は 「1985年に放送されたドラマ『毎度おさわがせします』(TBS系)でツッパリ少女役を演じて、アイドル“中山美穂”は鮮烈な女優デビューを果たしました。ファミコンが流行った1987年にはソフト『中山美穂のトキメキハイスクール』が発売され、ゲーム中に登場する電話番号に電話を掛けると、中山さん本人の音声で先に進むためのヒントやメッセージが聞ける触れ込みでしたが、彼女の声を聞こうとしたファンの間違い電話が増えてしまい、社会問題となりました」(スポーツ紙記者) そんな人気絶頂期、中山さんは自身にとって初めての“初ロマンス”が報じられることに。お相手は、飛ぶ鳥を落とす勢いで人気を集めていたアイドル・田原俊彦(当時26)だった。 「1988年に写真週刊誌に田原さんとのデートが報じられ、1991年にはふたりでハワイへの婚前旅行をワイドショーがキャッチしました。中山さんは子どもの頃から彼のファンで、当時ラジオで『恋してまーす。私は思ったことはパッとやっちゃうタイプ。明日でも結婚するかも』と発言し、ゴールイン間近と思われましたが、直後に破局しました」(同前) 田原との失恋を乗り越え、22歳となった中山さんは1989年から3年連続でフジテレビのドラマに出演。アイドルから女優へと転身を遂げた彼女を支えることになったのは、4つ年上の作曲家・井上ヨシマサ氏だった。1991年、自身の楽曲『rosa』を井上氏が担当したのがきっかけとなり交際に発展したが、その恋も長くは続かずピリオドを打った。