「彼女のラヴレターはまだ記憶に残っている」悲しみの声は海外からも…中山美穂さん(54)死去“ミポリン”愛称で親しまれ数々の映画やドラマで活躍
歌手で俳優の中山美穂さん(54)の突然の訃報で、悲しみが広がっています。 死因は、ヒートショックや溺れた可能性もあるということが分かってきました。 6日、歌手で俳優の中山美穂さんが、東京都内の自宅の浴槽で亡くなっていたことが分かりました。 死因は、ヒートショックなどの可能性もあるということです。 中山さんは、コンサートに向かうため関係者と待ち合わせをしていましたが、姿を現さず連絡も取れなかったため、事務所の関係者が自宅を訪れたということです。 自宅には鍵がかかっていて、知人に鍵を借りて入ったところ、浴槽の中で座った状態で倒れている中山さんを発見したということです。 その後、駆けつけた医師により、その場で死亡が確認されたということです。 捜査関係者によりますと、現場や中山さんの遺体の状況から、浴室に入った際に急激な温度変化により体に悪影響をもたらす「ヒートショック」や何らかの理由で浴槽で溺れた可能性もあるということです。 今のところ、中山さんに明らかな外傷などもなく、警視庁は、詳しい死因を調べています。 突然の訃報に街の人からは、「えっ?亡くなられたんですか?歌とか歌っているのは聞いたことはある」「え?いつ?なんで!?世代的には多分、私たちと同じ世代だからショック」「テレビでは世代も近いので、見たことはある。ご冥福をお祈りします」「えー!?最近まで出てたじゃないですか。久々にテレビに出ていたので懐かしいな…と思った。(青春時代に)ドラマを毎週欠かさず見てた。さみしいです」「え!?本当!?信じられない。やっぱりドラマでよく見ていましたし、地元の中学ちょっと近かったので、うわさでもかわいい子がいるとかよく聞いたことがあります。友達とよくカラオケで歌ったりテープ交換したり、懐かしい思い出がある。やっぱり80年代のトップアイドルですよね、残念です」「同年代でそういう方が亡くなるのは残念。当時はみんなカラオケで歌ってたんじゃないですかね。同世代できれいで活躍されてる方が1人いなくなっちゃうのは、思ったより全然早くいなくなるのはすごく残念です。あと思い出といえば『オリーブ』彼女が登場してた 『オリーブ』を持ってました。雑誌の『オリーブ』があったんですけど、今度実家に帰ったら捜索しなくちゃ…」などと驚きの声が聞かれました。 東京で1970年に生まれた中山さんは、1985年にテレビドラマ「毎度おさわがせします」で俳優デビュー。 その年にシングル曲「C」でアイドル歌手としてもデビューし、日本レコード大賞最優秀新人賞などを受賞しました。 その後も数々のドラマや映画に出演し、“ミポリン”の愛称で親しまれました。 1992年には、WANDSと歌った「世界中の誰よりきっと」がミリオンセラーを記録。今でもカラオケの定番曲になっています。 2002年には、作家の辻仁成さんと結婚し、芸能活動を一時休止しフランス・パリへ移住。 2004年に長男を出産しその後、辻さんとは離婚。 訃報が伝えられた6日、ビルボードライブ大阪では、中山さんのコンサートが予定されていました。 直前に訃報を聞いて駆けつけたファンの姿も見られ、中には涙をぬぐう人もいました。 ファンからは「信じられないというのが本当に…。なんかのフェイクニュースだろうと思ったのが正直なところです。元気な人なのでパワーある人で、僕らいつも元気をもらっていたので、そんな人がこんなことになるとは信じられないですね」「デビュー当時から応援してましたけど、最近もイベントあったのでそれにも顔出して応援してました。まだまだこれからという時に、自分も同じ年代なので、まだ早すぎるんじゃないかと思って非常に残念です」と、悲しみの声が聞かれました。 中山さんを何度も取材した芸能リポーター・駒井千佳子さんは「もう驚いたというよりも、これが本当のことなのか現実なのかちょっと信じるのに時間がかかった。取材ではお会いしたことありますが、本当に美しかったですね。ビーナスのような人」と思い出を振り返りました。 中山さんの突然の訃報は、海外でも。 中国でも、中山さんが主演を務めた「LoveLetter」で知られています。中国のSNSウェイボーでは、中山美穂さんの名前が検索ワードのトップに上がりました。 コメント欄には、「ラヴレターの女優・中山美穂さんが亡くなった。なんて突然なんでしょう!彼女のラヴレターはまだ記憶に残っている」「再びラヴレターを見ると悲しくなる。安らかに」といった悲しみの声が多く書き込まれています。 そして、中山さんの所属事務所はホームページでコメントを発表しました。 所属事務所コメント: 本日12月6日に、弊社所属のタレント中山美穂が自宅で亡くなっているのが発見されました。日頃よりお世話になっている関係者の皆様及び応援してくださっているファンの皆様に突然このようなお知らせをすることになり、心苦しいばかりですが、あまりに突然の出来事で、 弊社も驚きと悲しみで呆然としております。…
中山美穂さんの訃報受け親交あった有名パティシエが知られざる素顔明かす
俳優で歌手・中山美穂さんの突然の訃報を受けて、中山さんがかつてフランス・パリで暮らしていた当時に親交のあった有名パティシエが中山さんの知られざる素顔を明かしました。 中山美穂さんは2002年の結婚を機にパリに移住し、10年以上暮らしていました。 当時、親交があった方からも悼む声が寄せられています。 「MORI YOSHIDA」オーナーパティシエ 吉田守秀さん(47) 「本当に優しいし、あったかいし、おおらかですし、すごい周りを楽しませてくれる人で、本当に気を遣ってくれていたりとか、一番先に酔っぱらって楽しくなるとか、いろんな表情をみせていただいた」 フランス・パリの人気パティスリー「MORI YOSHIDA」オーナーパティシエの吉田守秀さんは、2013年に店を開業した当初に、当時、店の近所に住んでいた中山さんと親交がありました。 「MORI YOSHIDA」オーナーパティシエ 吉田守秀さん 「(ケーキを)食べてもらって『おいしいから大丈夫だね』と言ってくれて、当時から何回もお店に来ていただいて、アドバイスもいただいて、励ましてもいただいていた。人としてアドバイスをもらうことも多くて僕もスタッフにいいものをしっかり作らせたいとか、やっぱり熱量のあるパティシエってこういうものだからという話をしても『それはヨッシーはそうだけど、そうじゃない人もいていいんじゃない』『楽しくケーキや料理を作りたい人もいていいじゃん。だけど本気で打ち込んでいる人もいていいし、いろんな人がいてもいい』と言ってくれて僕はずっと覚えています」 吉田さんはその後、フランスのテレビ局のコンクールで2年連続優勝し、フランスの人気マカロン店「ラデュレ」とコラボするなど名実ともにパリ屈指のパティシエになりました。 「MORI YOSHIDA」オーナーパティシエ 吉田守秀さん 「また食べてもらいたかったです。また仕事で(中山さんが)来る機会があるんじゃないかなとか、日本でお店ができたので来やすいかなとか思っていたので急な話で寂しいですね。本当にスターというか華やかな人なので、(日本に)戻られてやっぱり自分の世界にもう一回戻ったんだな、もう一回花開くんだろうと思った矢先だったのでもうちょっと見たかったし、もっと褒めてもらいたかったなと。こんなになりました、というのを」
中山美穂さん 死の5日前…ファンに伝えていた「夢」
歌手で女優の中山美穂さんが6日、東京・渋谷区の自宅浴槽内で亡くなっていたことが分かった。54歳だった。1985年にデビューし、歌手や女優として活躍。「ミポリン」の愛称で親しまれた。特に歌手としてのこだわりは強く、直近のコンサートでは「生涯歌っていきたい」とファンに伝えていたという――。 中山さんはこの日、大阪で開催予定だった「Miho Nakayama Christmas Concert 2024 in Billboard Live」に出演するため、午前9時ごろに仕事関係者と品川駅で待ち合わせていたという。 しかし、約束の時間になっても現れず、不審に思った関係者が自宅のカギを持っている知人に連絡して合流。中山さんが住む渋谷区の自宅を訪れたところ、浴槽内で座った状態で倒れているのを発見。浴槽はお湯がはられたままだった。 直後の午後0時8分ごろ、関係者が119番通報と110番通報。その後、駆けつけた医師によりその場で死亡が確認された。「病死」の可能性が高いという。一部報道では急激な温度変化によって血圧が大きく変動し、体に悪影響をもたらす「ヒートショック」を指摘する声も上がっている。 中山さんは1985年にテレビドラマ「毎度おさわがせします」に出演し、デビュー。同年「『C』」で歌手デビューすると、「ツイてるねノッてるね」「WAKUWAKUさせて」などの曲で人気となり、「ミポリン」の愛称で親しまれた。 92年にはロックバンドWANDSと共演したシングル「世界中の誰よりきっと」が180万枚を超える大ヒットを記録し、94年のバラード「ただ泣きたくなるの」もミリオンセラー。映画「Love Letter」「ビー・バップ・ハイスクール」「サヨナライツカ」やドラマ「ママはアイドル!」など女優としても活躍した。レコード会社関係者がこう振り返る。 「15歳で歌手・女優としてデビューしてから、仕事には一切手を抜かず最前線で頑張ってきました。特に歌には前向きだった。今年は久しぶりの全国ツアーもやっていましたね。とにかく納得するまで歌と向き合う。楽曲『あなたになら…』『Dear My Friends』の作詞にも取り組んでいました」 直近ではクリスマスコンサートを1日に横浜で開催。6日に大阪、10日に再び横浜、15日に東京でそれぞれ開催予定だった。図らずも1日の公演が最後のステージになった。生前親交のあった音楽関係者の話。 「中山さんは1日の公演でキレイな衣装を着ていました。会場はダイニングテーブルを並べたディナーショー形式。『世界中――』などヒット曲を熱唱しました。ステージ上では『生涯歌っていきたい』といった趣旨のことも語っていた。歌手としてステージ上で魅せることにこだわり、ウオーキングのトレーニングに励んでいました」 ファンサービスにも熱心だった。自身のグッズ購入者に対して特典として来年1月、テレビ電話でトークする企画も控えていた。 特に来年はデビュー40周年のアニバーサリーイヤーを迎えるだけに、本人は意気込んでいたという。 「40周年のために全国で30か所くらいのコンサートツアーの予定も計画していたようですし、アルバムを制作する計画もあったそうです。春にはドラマ出演の話もあった。仕事に前向きでした」(別の音楽関係者) デビュー直後から、アイドルとして第一線で活躍していた中山さん。当時を知る芸能関係者は「80年代のころのアイドルは、今では考えられないような殺人的なスケジュールでした。寝るのは移動しているときだけのような感じでしたが、それでも美穂さんは、1回ダウンしたことがあるかどうかというくらい、体が丈夫なイメージでした。年齢を重ねたとはいえ、それほど弱くなったという印象もないし、持病があるとも聞いていなかったのですが…」と、その早すぎる死を悼んだ。