「あまりにも綺麗なままで…」中山美穂さん 不慮の事故死でも安らかだった「最期の表情」

「警察で対面した関係者によれば、美穂さんの遺体に、妹の忍さんがそっとステージ衣装をかけていたそうです」(中山さんの知人) 12月6日、東京・渋谷区内の自宅の浴室で亡くなっているのが発見された中山美穂さん(享年54)。8日、警視庁で検視がおこなわれ、同日夕方には所属事務所が公式サイトで《検死の結果、事件性はないことが確認されました。また、死因は入浴中に起きた不慮の事故によるものと判明しました》と発表した。 8日には歌手デビュー同期の工藤静香(54)、森口博子(56)、10日には石田ゆり子(55)といった同世代の有名人女性たちが追悼のコメントを発表していた。 《誰もが憧れ、そして親しみを持った彼女の“あの笑顔”を偲びつつ中山美穂さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます》(工藤) 《同期で同じキングレコードの美穂ちゃんが…。何かの間違いであってほしいと思います。コロナ禍前に電話で“久しぶりにご飯でも行きたいね”って、話してたので信じられません。仲間とのこんなお別れ、本当に辛すぎます。歌番組やドラマで共演した時の優しさ、本名で呼んでくれた事、美穂ちゃんの控えめな笑顔、忘れられません》(森口) 《何年か前、小さくて素敵なフレンチレストランでばったりあった時美穂ちゃんは、1人で颯爽とやってきて、私をみつけて、ゆりちゃん、と小さな声で言ってにっこり笑った。あの笑顔が忘れられないのです。ほんとうに綺麗な笑顔でした。みぽりん、心の中でそう呼んでます。残念です。早すぎます》(石田) 3人とも中山さんの笑顔を思い出していたようだ。前出の知人は言う。 「対面した関係者は当初、『“浴室で亡くなった”と聞いたので、溺れてさぞ苦しかったのでは…』と心配していたそうです。苦しそうな姿を覚悟して対面したところ、顔があまりにも綺麗なままで、とても驚いていたそうです。天国に召されるときまで、神に選ばれたアイドルだったんでしょうね……」 所属事務所によれば、葬儀の日時や場所については非公表で、後日改めてお別れの場を設けることが検討されているという。あの笑顔は永遠に消えない――。

〈追悼・中山美穂さん〉「いつ死ぬかわからないですもの。だから…」インタビューで語っていた死生観

85年に放送されたドラマ『毎度おさわがせします』(TBS系)でツッパリ少女役でデビューした中山美穂さん。野生的な瞳と八重歯が印象的な美少女で、当時の中高生に圧倒的な支持を受け人気アイドルとなった。集英社発行の雑誌『週刊明星』はデビュー当時から彼女を追い続け、91年に終刊となるまで表紙登場回数は実に30回以上。まぶしいほどの彼女の美貌を記録した写真とともに、その人柄を振り返る。また、彼女がかつて『LEE』のインタビューで語っていた「死生観」とは…。 超多忙なアイドル時代を過ごす デビュー当時はまだ15歳だった中山美穂さん。その実年齢以上に大人びたビジュアルは当時のアイドル評論家たちも「神秘的な美少女」と評した。その美貌は海外の人たちも魅了したようで、1985年12月5日発売号の『週刊明星』ではビデオ「na・ma・i・ki」のために訪れたイタリアのベニスのサンマルコ広場での様子をこう報じている。 撮影で大人っぽいイブニングドレスを着ると外人観光客が集まってきて「まるで(ロミオと)ジュリエットのよう」とたくさんのカメラが向けられ、ベニスの街で“おさわがせ”となってしまった。おまけにずっとついてきていた19才のイタリア青年にいきなり「ボクと結婚してくれ」と言われたのにはビックリ。「私はまだ15才よ」と丁寧にことわったが、「色々あって楽しい旅でした」とニコッ。 85年12月には映画『ビーバップ・ハイスクール』で映画初出演を果たし、同年末には日本レコード大賞 最優秀新人賞を史上最年少で受賞。当時の彼女は一体どんな暮らしをしていたのか。 1986年10月30日号の『週刊明星』では当時、ドラマ『セーラー服反逆同盟』のロケ中の中山さんをキャッチし、その多忙ぶりをこう報じた。 テレビ2本、ラジオ2本のレギュラーをこなし、人気歌手としてもフル回転して、たとえばこんなスケジュール。 6時起床、7時出発、8時渋谷集合。それからずうっと撮影で、終了予定夜10時。それが遅れて11時。家に帰って午前0時。で、翌朝の起床はナント5時 このようなハードな暮らしでどのようにストレス発散しているのかについて、中山さんはこう答えていた。 「あのね、いい解消法があるの。どんなに遅く帰っても、必ず友だちに電話するんだ。1時間話すこともざら」 気になるテレフォンメートは網浜直子や本田美奈子。網浜の場合、美穂がほとんど聞き役で、皆のことはお互いライバル視しながらも刺激しあっているらしい 喜怒哀楽は表に出さない徹底ぶり 『セーラー服反逆同盟』では同世代の仙道敦子や山本理沙らと共演した。撮影の待ち時間はキャッキャと華やいだ雰囲気のようだったが、そこに中山さんが加わることはなかったようだ。 「私ってすごい人見知りなんですよ。いいなと思ってもすぐに打ちとけられない。だから外側からみんなの楽しそうな姿を見て、うらやましいなぁと思ってる」 そんな中山さんの人見知りな一面をも含め、長く見続けてきた人物に話を聞いた。デビュー当時のエッセー集『透明でいるよ めいっぱい女の子』から1998年の写真集『ANGEL』(すべてワニブックス)にいたるまで5冊の写真集の編集に携わった元ワニブックスの編集者・池田清美氏は言う。 「出会った時から彼女はスーパーアイドルでしたが、物静かで、はしゃいだ感じもないし、大人しく非常に堅実な印象の少女でした。 自分勝手でわがままだとか生意気だとかはまったくなくて、やらなければいけない仕事を淡々とこなすクールな感じすらありましたね。人見知りというのは確かにあったと思います。 だから正直、長く彼女を見てきましたけど、彼女の大きな喜怒哀楽の感情を目の当たりにしたこともなければ、“こんなエピソードがある!”というほどの思い出は本当にないんです。 出会ったのは15歳でしたが、本当に最初からプロとしてのお付き合いをさせていただきましたね」 そんな池田さんだが、思い出すのはこんな不思議なエピソードだ。1991年に発売された写真集『SCENA miho nakayama pictorial』(ワニブックス)の撮影のためイタリアのベニスに行った時のことだ。 「ベニスのロケでは14世紀に建てられた屋敷を改装して作られた超名門ホテルに泊まりました。 ちょっと信じられない話かもしれませんが、そこで私は宿泊初日にものすごい心霊体験をしたんです。金縛りに遭い、軍隊とか民衆が私の頭上を行進してて、うなされた挙げ句、翌朝に40度近くの熱を出しロケ中にもかかわらず寝込んでしまったんです。 その後ミラノに移動しその話をしたら、美穂ちゃんが“実は私もあのホテルで金縛りに遭ってたくさんの幽霊を見てうなされた”と言うんです」…

「美穂さんの“生きた証”を守る」中山美穂さん(享年54)の母親が営んだレストランの現オーナーが明かした在し日の思い出

12月6日、渋谷区にある自宅の浴槽内で亡くなっていることがわかった歌手で俳優の中山美穂さん(享年54)。所属事務所は死因について「入浴中の不慮の事故」と伝えている。 “ミポリン”の愛称でトップアイドル、そして女優として活躍した中山さんは1970年3月、長野県の自然豊かな町で生まれた。 両親は中山さんが3歳のときに離婚。それ以降、中山さんは母子家庭で育ち、親戚の自宅で過ごすことが多かったという。ところが、そんな彼女に大きな転機が訪れる。広く知られているように、母親が秋田県出身の男性と再婚したのである。激動の幼少期を過ごしながらも、中山さんが親を恨むようなことはなかったようだ。【前後編の後編。前編から読む】 両親が創業したレストラン「今もファンレターが…」 所属事務所『ビッグアップル』の創業者・山中則男氏も、かつて夕刊紙の取材に「(中山さんは)オーディションには何度も落ちまくっていました。それでも本人が決してデビューを諦めなかったのは、“お父さん、お母さんに立派な家を建ててあげたい”という明確な目標があったからでした」と、その親孝行ぶりを明かしている。 実際にデビューからしばらく経ったあと、中山さんは両親のために都内に家を購入。さらに2000年7月には義父ゆかりの地である秋田県横手市内に、ふたりが創作レストランを開業する機会を設けた。子育てが落ち着いた母親と義父はレストランの経営に携わり、中山さん本人もお忍びで通っていたようだ。店の現オーナーである古屋宰さんはこう語った。 「当時、私はシェフだったのですが、11~12年前に副社長(中山さんの義父)からお店を受け継ぎました。最後に中山さんがお店に来たときに、副社長づてで美穂さんが『古屋さんや若い人がすごく頑張っているね。そろそろ(レストランを)受け継いであげてもいいんじゃない』と話していたとお聞きして、とても嬉しかったことを覚えています」 経営を引き継いだものの、その店名は創業当時から変えていない古屋さん。そこには“アイドル・中山美穂”に対するある思い入れがあった。 「最近でも、美穂さんのアイドル時代のファンクラブの方からお店のほうに年賀状が届いたりするんですよ。美穂さんが亡くなった今思うのは、お店の名前を変えなくて本当によかったなということ。突然亡くなってしまったことはただただショックですが、これからは美穂さんの“生きた証”として店を守っていきたいと思います」 残された家族やファンの心の中で、中山さんはいつまでも輝き続けることだろう──。