「美穂、起きろ! 寝てないで起きろよ。なんで寝てるんだ」
静まり返る師走の斎場に響いた男性の涙声。12月6日、渋谷区の自宅マンションの浴槽で亡くなった中山美穂さん(享年54)。永い眠りについた中山さんの棺のそばで背中を丸めていたのは、彼女の“育ての親”──39年前に14歳の中学生だった彼女を見出した所属事務所「ビッグアップル」の創業者・山中則男氏だった。
家族葬の喪主は女優で妹の中山忍 が務め、遺族と関係者ら約30人が参列した。中山さんが亡くなった後、山中氏がようやく対面したのは通夜でのことだった。手塩にかけて育てた娘のような中山さんの顔は、「とてもきれいだった……」と語る。
遺影は、12月1日にビルボード横浜で行われたコンサートで着用したドレス姿のものだった。祭壇にはダリアが印象的に飾られていた。憔悴する山中氏に忍が話しかけた。
「最初、姉の顔はこわばっていたんですよ。でも、皆に会えて今はいい表情になってきました。姉は山中さんと会えたことを、とても喜んでいましたよ」
斎場には中山さんの代表曲の1つだった『You’re My Only Shinin’ Star』が流れていた──。
NEWSポストセブンの取材に、中山さんと共に歩んだ波乱万丈の39年間を山中氏が120分にわたって振り返った。【前後編の前編】
「おそらく私の立場としては、これが人生最後の取材になると思います。美穂を支えて下さった多くのファンの方に少しでも彼女の素顔を知ってもらい、思い出として美穂を忘れてほしくないと思い、お話しさせていただきたいと思います。
オスカープロモーションを経て、“スカウトの山中”と呼ばれていた私が初めて美穂を見たのは、彼女が中学1年生のときでした。一目見て、衝撃が走ったのを今でも覚えています」
中山さんは中学1年の春、原宿の竹下通りで友達と買い物をしていた時にスカウトされ、モデルとなった。
「長年スカウトをしてきましたが、肌は焼けていて少し不良少女っぽい雰囲気でしたけど、美穂の目を見た時に『あの目は絶対に生きてくる』と感じました。スカウトの鉄則で、警戒されないために本命ではない子から声を掛けました。2人を事務所に呼んで『よかったらまた、2人でまた事務所に遊びに来なさいね』と、安心感を与えるのです。結果的に友達には遠慮してもらいましたが、美穂は芸能活動に前向きで、その時、すでに複数の事務所から声が掛かっていました」
何度か事務所に来るようになった中山さんと母親の3人で食事をした時に「ママに家を建ててあげたい」と、涙ながらに夢を打ち明けたという。
「その言葉を聞いて、私はこの子の夢を叶えてあげたいと思い、人生を懸けてみようと決心しました。私の母親の旧姓が“中山”だったことが縁で、芸名は本名の『中山美穂』に決めました。しかし、大きな仕事は決まらず、小さなカタログなどの仕事をする日々。オーディションも1年間で20社以上受けて全部落ちましたが、美穂の身長は158cmと、それほど大きくないのに華があってどこにいても目立ちました」