声優・飯田里穂、第1子妊娠を発表「不妊治療を続けてきた中で」
「ラブライブ!」星空凛役などで知られる声優の飯田里穂が25日、X(旧ツイッター)を更新。第1子妊娠を報告した。 飯田は「このたび、新しい命を授かりましたことをご報告いたします。不妊治療を続けてきた中で、多くの経験を重ねながらようやく授かることができました」と報告。「現在、体調は安定しており、周囲の方々と相談しながらお仕事を続けさせていただいております」と近況を記した。 「先々のスケジュールや活動に影響が出ることを考慮し、このタイミングでのご報告とさせていただきました」と説明。「応援してくださっている皆様、関係者の皆様、体調がすぐれない際にご理解とご協力をいただき心より感謝申し上げます」と伝え、「家族が増える喜びをかみしめながら、これからも穏やかに過ごしていきたいと思っています。今後とも温かく見守っていただければ幸いです」と呼びかけた。
松岡昌宏、芸能界入りのきっかけは香取慎吾と観月ありさ 「いなかったら俺はいない」
少年時代、光GENJIに憧れて芸能界入りしたTOKIOの松岡昌宏。履歴書を送るための背中を押した、同学年のタレントを明かし…。 ■「芸能界に入ろうと思ったきっかけは…」 チャンネル開設第1弾の前回に引き続き、普段から飲み歩いているという六本木の大衆居酒屋でロケをする松岡は、20年以上飲み仲間だという女優・観月ありさに言及。 彼女は「単なる友人」以上の存在だそうで、「あの六本木の駅に行って、俺が芸能界に入ろうと思ったきっかけは、観月と香取慎吾」「(2人が)いなかったら俺はいないからね」と、芸能界入りのきっかけになっているとも明かした。 ■2人が「行動力をくれた」 松岡は続けて、「この世界に入りたいなーって思ってたときに、『大人にならないと芸能人になれないんだ』って思っていて」「小学校5年くらいかな? TVで観月ありさを見て、6年生になるくらいのときに慎吾を見て、『えっ! できるんだ同い年でも』って思って」「『じゃあ(履歴書を)送ってみよう』ってなって入ったから」と告白。 自身と同学年の観月と香取が幼くして活躍する姿を見て、芸能界入りを決断したと激白した。 これまで、松岡は光GENJIに憧れて芸能界入りしたことを公言していたが、「もちろんきっかけは光GENJIを見て入りたかったんだけど、その(履歴書を送る)勇気というか、行動力をくれたのはあの2人だね」と、観月と香取の存在が背中を押したと語っている。 「一緒にいるとがっかりする…」好かれない人がしれっとやりがちなこと ■秘蔵エピソードに反響 この秘蔵エピソードは反響を呼び、コメント欄には「話が面白くてずっと聞いていたい」「香取慎吾の名前出てきて嬉しかった」「香取くんと飲むところ見てみたい」といった声が。 特に、今でこそ別々の事務所なものの、かつてはTOKIOとSMAPとして国民的グループであった香取のエピソードが注目を集めている。香取もビール好きで有名なだけあり、いつかゲストとして飲み交わす企画も期待したい。
【追悼’24】「歌手の小金沢君」で時の人に…小金沢昇司さんが果たせなかった〝復帰の夢〟
’24年も多くの著名人が惜しまれつつ旅立っていった。過去に本誌が紹介してきた記事などをもとに、往時の活躍をふり返り、故人を偲ぶ──。 ブレイクのきっかけはたけしさんの一言 演歌歌手の小金沢昇司さんは1月11日に呼吸不全のため、神奈川県内の病院で亡くなった。享年65。’23年の年の瀬から演歌界では八代亜紀さん(享年73)、冠二郎さん(享年79)らの訃報が相次いだ中での死だった。 1984年に演歌界の大御所、北島三郎(88)に弟子入り。4年ほど運転手をつとめた後、1988年にデビューを果たす。そして小金沢さんの名前を一躍全国区に広めたのが、1992年ののど用スプレー『フィニッシュコーワ』(興和)のCMだった。 「歌手の小金沢君が使っているのはフィニッシュコーワ」のナレーションで始まるCMで小金沢さんはセリフを一言も発せず、持ち歌が流れることもなし。まだ顔が売れていなかったことから「あの人は誰?」「本当に歌手なの?」と話題となったのだ。同年の「新語・流行語大賞」の大衆部門で銀賞を受賞することにもなった。当時のフィーバーぶりについて、小金沢さんは本誌’08年12月19日号で次のように語っていた。 《ビートたけしさんが何かの番組で『あの小金沢クンて誰なの?』と言ったのがきっかけだったと思います。たった2ヵ月間のCM放送でしたが、オンエア率が高かったためか一気に注目されました。おかげで『フィニッシユコーワ』はそれまでの数十倍を売り上げ、その年の5月に発売された僕のCD『おまえだけ』は30万枚を超える大ヒットとなったんです。薬局には『〝小金沢クン〟をください』 と買いに来る人が大勢いたそうですよ》 このときの取材で小金沢さんは《演歌界に自分なりの色を出したい》という夢も語っていた。 復帰に向けてのリハビリもむなしく… 〝時の人〟ではなくなってからも、歌手活動は順調だった。持ち歌も増え、’03年にリリースした『ありがとう…感謝』は発売から10年も経った’13年に第6回日本作曲家協会音楽祭にてロングヒット賞を受賞している。 順調に見えた小金沢さんの歌手活動に暗雲が垂れ込めてきたのは、’14年に北島音楽事務所から独立して、芸能事務所を立ち上げたあたりからだった。若手時代からギャンブルなどで作った借金に加えて、事務所の設立資金を複数の知人に出してもらったことで大きな負債を負ったという。 「他にも数百万円の不動産詐欺にあったり、化粧品ビジネスに失敗したりで借金は数千万円にのぼったそうです。地道に地方営業をこなして返済していましたが、コロナ禍で生活が一変してしまった。営業はほぼ中止になり、収入は8割減。借金返済のため、生活は厳しかったようです」(小金沢さんの知人) 追い打ちをかけるように’20年11月、小金沢さんは酒気帯び運転で事故を起こして逮捕されてしまう(後に不起訴)。この事件で小金沢さんは芸能活動を自粛。以来、表舞台で歌うことはなかった。自粛中は人前で歌うことを控えていたが、「歌わないと声が出なくなるから」とカラオケでひんぱんに歌っていたという。 ’22年の夏には新型コロナに感染。回復後も誤嚥性肺炎を何度も発症し、’23年は体調不良のために入退院を繰り返していたという。’23年はデビュー35周年という節目の年ということもあって、ステージへの復帰を目指してリハビリに励んでいたが、ついに叶わぬ夢となってしまった。 ご冥福をお祈りします──。