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愛子さまがインフルエンザ 上皇さまへのあいさつ取りやめ

宮内庁は23日、天皇、皇后両陛下の長女愛子さま(23)がインフルエンザと診断されたと発表した。両陛下に症状はない。

愛子さまは22日夜、38度台の発熱とせきの症状があり、23日朝に検査をしたところインフルエンザに感染されていることが判明した。27日まで予定していた行事などへの出席を控えるという。

 愛子さまは23日午前、仙洞御所(東京都港区)で、この日91歳の誕生日を迎えた上皇さまと、上皇后美智子さまにあいさつをする予定だったが取りやめた。両陛下も大事をとって上皇ご夫妻へのあいさつを見送った。また、天皇陛下は23日夜の展覧会の鑑賞も取りやめた。【高島博之】

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斉藤由貴 夫と離婚で財産分与も受けていた…“W不倫報道”の医師と関係継続で朝帰りの日々

冬晴れの朝、ロングヘアをなびかせながら仕事に出かけて行ったのは女優・水嶋凜(25)。 母親の斉藤由貴(58)が、愛車で自宅に帰ってきたのは、長女の“出勤”から1時間後だった。 サンダル履きで帽子を目深にかぶっており、表情はよくうかがえなかったが、朝帰り特有のけだるさが伝わってくる。 斉藤母娘を横浜市内の自宅付近で目撃したのは12月中旬のこと。 本誌は9月18日発売号で斉藤が自宅と、恋人の60代医師・T氏が住むマンションを行き来する生活を送っていることを報じた。それから3カ月、彼女の“二重生活”はいまも続いている。 1985年2月、『卒業』で歌手デビューした斉藤由貴。40周年にあたる25年2月から36年ぶりの全国ホールツアーを控えているが、実は私生活でも、ある“卒業”を果たしていたのだ――。 テレビ番組での斉藤の発言に注目が集まったのは12月17日だった。芸能関係者はこう語る。 「『めざまし8』(フジテレビ系)が斉藤さんを密着取材し、その様子を17日に報じたのです。一連の取材のなかで彼女は、21年に水嶋凜の芸名で俳優デビューした長女についてコメントしていました。 親子であることを公表していることについて、『正直言って、私の名前をずっと出さないほうがよかったんじゃないかな。(女優は)私が積んできたキャリアってこともあるし、いろいろなことがあったので』などと語ったのです。 特に“いろいろなこと”という言葉について推測する記事が複数報じられました」 斉藤は、故・尾崎豊さんや川﨑麻世(61)らとの不倫が報じられ、いつしか“魔性の女優”と呼ばれるようになった。 「さらに17年には、横浜市内でクリニックを経営している医師・T氏とのW不倫が発覚しました。『週刊文春』が斉藤さんの借りているマンションに、週に何度もT氏が訪問していることなどを報じたのです。斉藤さんも当初は関係を否定していましたが、『FLASH』が2人のキス写真を掲載し、不倫関係を認めざるを得なかったのです。 斉藤さんとT氏は一度、関係の解消を発表しましたが、その後、交際は復活したようです。『めざまし8』のインタビューでの“いろいろなこと”という言葉には、“不倫を繰り返してきた女優”と報じられている自分とは関係なく活動したほうが長女のイメージにはよかったのではないか、という母親としての煩悶や思いやりが感じられました」(前出・芸関係者) ■夫のI氏を“永遠の伴侶”と呼んでいた斉藤 だが実は“いろいろなこと”とは、不倫スキャンダルのことばかりではなかったのだ。斉藤の知人は本誌に次のように証言する。 「斉藤さんは夫のIさんと春ごろに離婚したのです。Iさんが自宅から出て、斉藤さんはお子さんたちと生活しています」 斉藤がI氏(59)と結婚したのは、30年前の1994年12月19日だった。同じモルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)の信者であったことから前年に交際がスタートし、初対面から10日ほどで結婚を意識し始めたという。 当時I氏が、アメリカの大学に留学中だったことから、斉藤が渡米し、デートを重ねていたのだ。電撃結婚として話題を集めたが、その発表会見で、斉藤は次のように語っていた。 「性格や(今までの)生活が違う2人が暮らすのは大変なことで、何か共通のもの、たとえば宗教などが必要だと思います。 私は家族が教会員ですから、信仰にすごく大切さを感じました。もちろん、男性として彼のことは大好きです。(Iさんは)とても信仰の強い人。これから(私も)強くなれる可能性を感じていて、とってもうれしいです」 斉藤が00年に出版した自著『私の好きなあの人のコト』(新潮社)でも、彼女は夫婦生活についてこうつづっていた。 《お恥ずかしい話だが私は今のダンナさん以外、こんなに長く一人の男性とおつきあいした事がない。(中略)やっぱり現時点では、今の私にとって六年間一人の男性――人間と向かい合って生きて来た事実は、我ながらとてもびっくりするもので、又とても重い。(中略)なんとも言葉にし難い部分で、私達はお互いを永遠の伴侶に選んだ。文章を書いている人間がこういうのもおかしなものだが、この、”言葉にし難い“という部分に自分の人生を賭けたことに、私は至極満足している。人生なんて、そんなものだと思う》 著書によればケンカや意見の衝突も多かったというが、斉藤が“永遠の伴侶”と呼んだI氏との結婚生活は順風満帆だったといえる。 斉藤が“信仰が強い人”と評したようにI氏は敬虔な信者で、教会内での地位も上がっていった。また長女の水嶋も含めて3人の子供に恵まれ、08年には横浜市内に豪邸を新築している。 だが、その豪邸の不動産登記によれば、24年3月までに彼女は旧姓に戻っており、I氏が自分の持ち分を、斉藤に財産分与していることが確認できた。 17年、長女と出かける斉藤由貴 ■斉藤は女優の長女に「些細なミスはどうでもいい」と 前出の斉藤の知人が続ける。 「斉藤さんの報道では、“モルモン教徒だから離婚できない”という内容のものもありましたが、それは事実ではありません。モルモン教徒同士でも離婚に至るケースはあるのです。…

「永遠に忘れないよ」中山美穂さん FC閉鎖発表もインスタ“最後の投稿”に寄せられ続ける慟哭の声…コメントは1万件超え

12月6日に突然この世を去った中山美穂さん(享年54歳)。訃報から2週間あまりが経過したが、いまも深い悲しみに包まれている。 「所属事務所によれば、死因は入浴中に起きた不慮の事故だったとのことです。12日に家族と事務所関係者のみで葬儀が執り行われ、妹の忍さん(51)は発表した声明のなかで、美穂さんの長男も参列していたことを明かしていました。美穂さんは’14年7月に作家の辻仁成さん(65)と離婚してから、約10年間にわたって愛息と会っていなかったといいます。彼女は生前、“子供に会いたい”と望んでいましたが、まさかこのような形で再会を果たすとは誰しも想像していませんでした……」(芸能プロダクション関係者) そんななか20日には、中山さんのオフィシャルファンクラブ「Langue de Chat」が、’25年3月31日をもってサービス終了することが発表された。公式サイトでは《これまで当ファンクラブを通じ、中山美穂を応援してくださった皆さまとの温かな繋がりは、運営チーム一同の大切な宝物でございます。残りの期間、そしてその後も『Langue de Chat』が皆さまにとって色褪せない思い出となりますことを心より願っております》と、ファンに向けた感謝の気持ちがつづられていた。 いまも中山さんの死を受け入れられないファンも多いなか、“集いの場所”となっているのは中山さんのインスタグラムだ。 中山さんが生前最後に、インスタグラムを更新したのは亡くなる前日の12月5日だった。東京・六本木にある「森美術館」で開催中の展覧会『ルイーズ・ブルジョワ展:地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ』を、鑑賞したことを報告していた。 ポストには現在までに1万件ものメッセージが寄せられており、コメント欄では次のような偲ぶ言葉が並んでいる(12月24日18時現在)。 《まだ信じられない、居ないなんて。美穂が大好き、これからもずっと。ミポリン、皆んなが愛してるよ ありがとうございました》 《大好きだよ。たまらないよ。あなたの事は永遠に忘れないよ!》 《さみしいよ。会いたいよ。ショックすぎる。美穂ちゃんは私の青春でした ずっと忘れない。美穂ちゃんありがとう》 「すでに“いいね”の数も6.5万件にのぼっており、こうしたメッセージの他にファン同士でコメントし合う交流も見受けられました。訃報が入った直後は1,400件ほどの書き込みが寄せられていましたが、日に日に増え続けているのです。ファンクラブの閉鎖が発表されただけに、中山さんのインスタグラムアカウントを“残してほしい”と願っているファンも少なくありません。今後どのように取り扱われるかはわかりませんが、アカウントが残された場合は、ファンが中山さんと繋がることができる場所として大切にされていくことでしょう」(WEBメディア記者) 多くの人々に愛された中山さん。その輝きは永遠だろう――。

中山美穂さん 葬儀で実母は慟哭…個人会社の資金管理巡る“溝”埋まらぬまま急逝

「松岡(昌宏)さんたっての希望で、今回の『ミタゾノ』の第1話に中山さんのゲスト出演が決まっていたんです。小学生時代からファンで“結婚していちばんショックだった人”の質問に中山さんの名前をあげたことがあるほど。待望の共演となった彼女の笑顔を松岡さんはいまも忘れられないそうです」(番組関係者) ’25年1月に中山美穂さん(享年54)が生前に撮影していた2本のドラマが放送される。その1本が、『家政夫のミタゾノ』(テレビ朝日系)だった。まさかそれが“終幕”となるとは――。 誰もが耳を疑った中山さんの急逝から約半月が経過した。葬儀・告別式がおこなわれた12日、妹・忍(51)はこのコメントを発表。 《何より姉が幸せを願ってやまない愛する息子と、再会の時間をもたせてあげることができました。手を?ぎ、そっと寄り添う2人の姿は、とてもとても幸せなものでした》 辻仁成(65)との間に誕生した長男(20)と“最後の対面”をしていたことを明らかにした。彼女の知人はこう語る。 「中山さんは常に周りには『息子がかわいくて仕方がない』と溺愛していることを明かしていました。しかし、’14年に離婚。親権は辻さんが持ちますが、彼女からは“親権を譲ることが離婚を承諾してもらう条件だった”と聞いています。離婚後、約10年間、長男とは会っていなかったようです」 長男は中山さんの葬儀・告別式には参加していなかった。それには理由があったという。 「長男は一般人ですので、取材陣の目に触れる可能性のある葬儀へ参列するのはどうなのか、遺族や関係者の間で話し合いがあったようです。パリの辻さんも心配して“長男を守ってほしい”と要請があったといいます。 また、忍さんからは“どうしても姉を自宅に帰してあげたい”という強い要望があったそうです。そこで、中山さんの住んでいた都内の自宅で、長男と最後の対面をすることになりました」(前出・知人) 妹・忍が喪主を務め、遺族と関係者ら約30人が参列した葬儀ではこんな場面が見られたという。 「親族の最前列に喪主の忍さんや弟さん、その隣にはお母さんが座っていたんです。お母さんは葬儀中、ずっと背中を丸めて泣いていました」(参列者) 中山さんは自著『なぜなら やさしいまちが あったから』で、自らの生い立ちを明かしている。戸籍に実父の名前はなく、覚えているのは彼の背中と自宅にあったフランス人形、床の間に飾られた日本刀の置物だったという。 「お母さんは忍さんを出産後、実父と別れて、姉妹は親戚や祖母の家などに預けられたそうです」(スポーツ紙記者) 同書でもこのような記述が――。 《私は母に対する幼少期の記憶はあまりない。母なりに一生懸命生きていくために私はあらゆる家に預けられていた》 中山さんが小学生時代に、実母は秋田県出身の男性と再婚。弟が誕生する。そして運命の’82年、中学1年生の中山さんは東京・原宿でスカウトされることに――。 「中山さんとお母さんと、のちの事務所社長が、3人で食事をしたときのことです。中山さんは2人を前に『お母さんはとても苦労してきました。だから私はとにかく頑張って、お母さんに家を建ててあげたい』と涙を流して訴え、芸能界入りを決めたそうです。’88年にはお母さんが代表取締役を務める個人会社を設立。収入の管理を彼女に一任していたといいます」(前出・スポーツ紙記者) ■泣き崩れた実母を妹・忍が支えて―― またたく間にトップアイドルとなった中山さん。’95年には母親のために、東京・三鷹市内に3階建ての一軒家を建設する。母娘の強固な関係はこのまま永遠に揺るがないと思われたが……。 ’01年、中山さんは辻と出会い、交際8カ月で翌’02年に電撃婚。フランスに移住することを決める。’04年に長男を出産してから、母娘の溝は徐々に広がっていったようだ。音楽関係者はこう語る。 「母親は’00年、再婚相手の地元である秋田でイタリアンレストランを開きました。しかし経営は決して順調ではなかったようです。あるとき美穂さんは、個人会社の残金が少ないことに気づき、母親に不信感を覚えるようになりました。それを機に、母親に自らの資金管理を任せることを一切やめる決意をして、距離を置くようにしたといいます」 実母が代表取締役を務める個人会社は’12年に閉鎖され、中山さん本人が代表取締役を務める新会社に合併されることとなった。また、三鷹市内の自宅も売却され、秋田のレストランも別の人物が運営することとなった。 「中山さんの新会社の役員には、ほかに忍さんの名前があるだけで母親は名を連ねていません。会社閉鎖のころから、中山さんと母親の間には確執が続いていたようなのです。母娘関係が昔のように良好であれば、母親が今回、喪主を務める選択肢もあったはずですし……」(前出・音楽関係者) 葬儀では中山さんの母親の憔悴ぶりが際立っていたという。前出の参列者はこう語る。 「お母さんは葬儀の途中で泣き崩れることもあり、そのときは忍さんが支えていましたね……」 前出の知人は言う。 「中山さんは長男が成人を迎え、“自分のことを恨んでいるかもしれないけれど、もう一度会って話をして許してもらいたい”という思いを抱いていたようです。ひょっとしたら、お母さんも、中山さんと同様に“もう一度、向き合って話せたら”という切なる思いを長らく抱いていたのかもしれませんね」 中山さんが生前、撮影していたもう1本のドラマは香取慎吾(47)主演作『日本一の最低男 ※私の家族はニセモノだった』(フジテレビ系)だった。華やかな芸能生活の傍らで、“家族のあり方”に苦慮する人生だったのかもしれない。

永尾柚乃、将来の夢は監督 脚本のアイデアは「パーンと浮かぶ」

子役の永尾柚乃(8)が25日、「キッザニア東京 大和証券出展「証券会社」パビリオン リニューアル オープニングセレモニー&プレスプレビュー」に出席し、将来の夢について語った。 将来の夢は監督と明かした永尾柚乃 (C)ORICON NewS inc. KCJ GROUPが企画・運営を行う子どもの職業・社会体験施設「キッザニア東京」(江東区)では、大和証券グループ本社出展のパビリオンがリニューアル。「キッザニア東京」開業以来初となる、専用通貨「キッゾ」を使った投資体験ができる「証券会社」パビリオンが新たに誕生した。 「キッザニア東京 大和証券出展『証券会社』パビリオン リニューアル オープニングセレモニー&プレスプレビュー」「証券会社」パビリオンの模様(C)ORICON NewS inc. この日、蝶ネクタイにチェック柄のスーツ姿で登場した永尾。首にかけた財布から取り出した「キッゾ」やパネルを用いて、パビリオンの内容や楽しみ方について、プレゼンテーションを行った。 MCから将来になりたい職業を聞かれた永尾は「監督さんになりたい」と話した。そのために、3歳の頃から脚本を書き貯めていると言い、感動系の脚本やおもしろい系の脚本をいっぱい書いてます」と笑顔で語った。 また「テレビを見てたら、パーンと浮かびます」と、アイデアが振ってくる直感的なタイプだと明かし、「パーンってきたら、すぐにノートに書き始めます」と努力家の一面を見せた。 「キッザニア東京 大和証券出展『証券会社』パビリオン リニューアル オープニングセレモニー&プレスプレビュー」に登場した永尾柚乃(C)ORICON NewS inc. 大和証券グループ本社取締役兼執行役副社長の田代桂子氏、KCJ GROUP代表取締役社長の圓谷道成氏も出席した。 なお、「証券会社」パビリオンのリニューアルオープンはきょう25日の第2部(午後4~9時)から。

「逃げたかった」広末涼子 2年間の休業にいたる“葛藤”を激白「強迫観念の中にいました」

女優の広末涼子(44)が12月23日に更新されたYouTubeチャンネル「Short Hope」の動画に出演。休業期間中の胸の内を赤裸々に告白した。 同チャンネルは多くの俳優やアーティストを手掛ける大御所スタイリスト・馬場圭介氏の番組。月替わりでさまざまな有名人を迎え、その生き様をテーマに馬場氏がゲストをスタイリングしていくという内容だ。これまでにのん、藤井フミヤ、窪塚洋介らが登場し、自らの人生の軌跡を語ってきた。 今回、広末は「ジェンダーレス」というテーマを馬場氏にリクエスト。幼少期、よく男の子に間違われていたというエピソードを披露しつつ、「女優になることは小さいころからの夢で物心ついたときから決めていた」と回想した。 番組中盤では90年代の“ヒロスエブーム”の話題に。広末は人気絶頂の中、03年に結婚と妊娠を発表して産休に入った。その後、2年間休業した理由を問われると、世間から求められる“広末涼子”像と本当の自分とのギャップに苦しんでいたためだといい、こう語った。 「みなさんが思っているイメージに反したくはないし、期待に添いたい。イメージを持ってくださるってことは注目してくださっているってことでありがたいし、裏切りたくない。だけど、100%イメージ通りには生きてはいけない。自分の選択肢とか人生っていうのが、女優としてがすべてじゃないなって思ったときに、一回手放してみたいというか、もしかしたら逃げたかったかな……」 当時23歳だった広末は「責任とか重圧とか、若かったから余計にこの業界でやっていくことが自分に合っているのかどうなのか混乱」していたのだという。続けて、「自分に戻れる時間って絶対必要で。でも、人気があったり需要があったりすると休ませてもらえないから、ただただ辛くて、眠くて、疲れてるみたいな。楽しいことする時間ないし」と当時の苦しい心境を明かした。 ‘19年のインタビューでは、広末はこの時期を《好きであることを忘れて、やらなければという責任感とか負荷ばかりがかかって、よろいみたいに重たくなってしまい、本末転倒だった。なんのためにやっているのだろうと、強迫観念の中にいました》(「withnews」19年1月20日配信 以下同)と振り返っている。だが、そんな“葛藤”も2年の休業期間のおかげで乗り越えることができたのだという。 「広末さんは休業中、家族や育児に向き合いつつも一視聴者としてたくさんのドラマや映画を観ていたと聞きました。そこで、ちょっとアホらしいようなコメディ作品でも人に癒しや感動を与えられることを知り、自分が女優として凝り固まった考えをしていたことに気づき、気持ちがラクになったそうです。 また、セルフプロデュースが苦手であることを改めて自覚したことで、世間のイメージする“広末涼子”像を意識せず、肩の力を抜いて自然体で仕事に挑めばいいんだと思えるようになったのだとか。それが女優として演技や役柄の幅を広げることにつながったそうです」(制作関係者) どん底からの休業期間を経て女優として大成したにもかかわらず、‘23年の不倫騒動でまたもや休業してしまった広末。今年4月、約1年ぶりに芸能活動を再開させたものの女優復帰はまだの彼女が、もしかすると今回の“休息”でさらなるパワーアップを遂げているかもしれない。

森口博子、中山美穂さんからの忘れられない言葉 FAXでやり取り「全てが美しい、誇らしい同期」

歌手の森口博子が24日、テレビ朝日系「昭和の名曲グランプリ2024」で、6日に亡くなった中山美穂さんについての「忘れられない言葉」を涙を浮かべながら明かした。 中山さんの歌う映像を紹介した後、中山さんと同期の森口は「キングレコードでも一緒で、ディレクターさんも一緒で、会ってるときも、会ってないときでもスタッフを通じて美穂ちゃんの頑張り、届いていた」とコメント。 「ドラマで共演しているときは、当時は携帯電話とかなかったときなので、夜中にファックスを送り合って。本名で呼んでくれていたが、忘れられない言葉が、すごく忙しかったときに美穂ちゃんが『心は元気ですか?』って書いてくれて」と言うと涙を浮かべた。 「普通は『体調は大丈夫ですか』とか書くのに、明日も頑張り過ぎないで楽しんでねって」と声を詰まらせた。「常に周りの人のことを見ていてくれた。本当に優しい美穂ちゃんだった。演じても歌っても話しても全て美しい。誇らしい同期だった」と言って涙をぬぐっていた。

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